少読乱読日記

小説や漫画のことなど。

推しと『推し、燃ゆ』

※この文章自体は昨年書いたものです


 『推し、燃ゆ』の載っている「文藝」秋号を買ったのは、ちょうど「推しとは何ぞや」と思っていて、タイミング良く発売されたからに他ならない。

 1971年生まれの私が小学校高学年~中学ぐらいの時には、「たのきんトリオ」や「チェッカーズ」が全盛期で、「トシちゃん派なのマッチ派なの!?」と詰め寄られたり、「マッチと結婚したい……」と語られたりしていた。チェッカーズのコンサートに行った子が「フミヤがこっちを見た」と思い出しては涙するのを見たりもした。あの頃の子たちと、今の「推しを推す」子たちがどう違うのか、という単純な興味だった。

 あの頃の「好き」はすべて「異性間の恋愛」につながるものとみなされていたように思う。「ファン」や「追っかけ」は「疑似恋愛」であり、必ず異性に対して発動し、「本物」の恋愛を体験するとともに消えていくものであると。「異性間の恋愛」は必ず相手からのレスポンスを望むものであり、行き着く先は「結婚」あるいは少なくとも「結婚への願望」につながるはずであると。

 それが王道であり、それ以外は異端だった。広くてまっすぐな「異性との恋愛→結婚」という高速道路があり、「異性との婚外恋愛」いわゆる「不倫」の獣道が脇をくねる、それが「好き」の道だった。「ファン」や「追っかけ」はその高速道路に入る前の合流道路にすぎないと思われていた。その傾向はつい10年ほど前まで続いていたように思う。

 2009年、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)に主婦からのある相談が載った。その相談とは「アニメのキャラに本気で恋をしたので、夫と離婚したい」というものだった。スレッドが進むにつれ、その相手キャラが「北斗の拳」のラオウであると明かされ皆ずっこける流れになっていたので、ひょっとしたら「釣り」であったかもしれないが、ともあれその相談はネット上で話題になった。

 少なくともその頃は「(アニメキャラのような)手の届かない存在を好きになること」と「(実在し手に届く人間との)結婚生活」とは両立しないものととらえられていた、ということだ。つまり「手の届かない存在への『好き』という感情」は「恋愛」であり「恋愛」は「結婚」につながるものだから両立、併存はできないということだ。

 だがその頃、もう一つの流れが加わる。2009年には、それまで秋葉原系オタク限定アイドルとみなされていたAKB48オリコンチャート1位を取り、「一推しのメンバー」を意味するアイドルオタク用語であった「推しメン」が2011年にはユーキャン新語・流行語大賞候補になるほど人口に膾炙し、「推し」がオタク限定ではなく一般的な概念になった。

 さらに数年経つと、性的マイノリティへの認識の深化が始まった。LGBTQという言葉が一般的になり、BLや百合の物語が書店で一角を占めるまでになっている今では、「好き」が異性間に限らないことも、ましてや結婚に直結するものではないことも、大多数がわかっている。「好き」が多様化したのである。

 読後に調べたところ、『推し、燃ゆ』の作者である宇佐見りんさんは1999年生まれ。「推しメン」が新語・流行語大賞候補になったときは12歳だから、ぎりぎり「推し」という語が生まれながらにしてそこにあったかどうか、という世代であり、「推し」という言葉を違和感なく使うことができる世代であろう。「推しネイティブ」といってもいい。

 また、急速に性的マイノリティへの理解が広まるころに、思春期を過ごした世代でもある。「『好き』の多様化第一世代」とでもいうか。

 そう考えると『推し、燃ゆ』の冒頭の一文「推しが燃えた。」は絶妙だ。「燃えた」を「炎上した=言動や行為に対して、インターネット上で批判が殺到した」という意味だと捉えることができるか、も含めてこの一文で「『推し』って(実感として)わかる? わからない?」を突きつけられているように思う。実感として理解できる「推しネイティブ」ならば「それはショックだよね」と同情し「何をやらかしたの?」と興味をひかれ、推しの概念がわからないノンネイティブならば「?」が頭の中に飛び交うだろう。おそらく作者自身が「推しネイティブ」であることを自覚した上で、推しネイティブもノンネイティブも興味をもつであろう表現として「推しが燃えた。」という一文を冒頭にもってきた、という策略なのではないか。

 

 『ポーの一族』という萩尾望都作の漫画がある。バンパネラ(吸血鬼)となり永遠に生きる少年エドガーを主人公に短篇の連作形式で描かれたもので、「はるかな国の花や小鳥」もその短篇のひとつである。

 バラ(血とともにバンパネラの食物)が咲き誇る庭の女主人、いつも幸せそうに笑っているエルゼリと親しくなったエドガーは、エルゼリの指揮する合唱隊にしばし通うことにする。エルゼリは、10年前の夏に出会った恋の相手、婚約を破棄して戻ってくると約束したハロルド・リーを思い続けており、ハロルドが前からの婚約者と結婚したと聞いても「わたしは幸せ」と言う。

 「憎しみも悲しみも それらの感情は行き場がない わたし弱虫 そんな感情には耐えられない だからあの人を愛していたいの それだけで幸せでいられる」と。

 この一方向性、レスポンスを求めない自分の側からだけのベクトルは「推し」への感情と同じではないか。

 「わたし弱虫 現実世界には耐えられない だから推しを推していたいの それだけで幸せでいられる」と言い換えればそのまま『推し、燃ゆ』の世界ではないか。そこは「ハロルド・リーがわたしを選んだ」あるいは「フミヤがこっちを見た」というような現実のレスポンスは不要で、ただ「自分の思い」さえあればいい世界だ。

 エドガーはハロルド・リーを訪ね「エルゼリを知ってる?」と唐突に質問するも、ハロルド・リーは「だれのことだね?」と覚えていない様子を示す。エドガーはエルゼリにその事実を告げようとするが、出てきたのは「あの人あなたのこと……覚えてたよ」という嘘の言葉だった。

 エルゼリはエドガーに「(ハロルド・リーは)口ひげを生やしたって聞いたわ。似合ってた?」など、覚えていたかどうかさえどうでもいいような質問をする。これも「レスポンスはどうでもいい、ただ相手を知りたいという思い、自分の思いさえあればいい」ということではないか。

 また、エルゼリはエドガーに、ハロルド・リーとの10年前の想い出を話す。彼が婚約者のいる街に戻らなければいけない日の前夜、二人で出かけると、お城が見えた。「お城が見えるわ」そう言ってからすぐに、それが月明かりに照らされた木立だと気づいた。だが、ハロルドは答えた。「ああ ほんとうだ お城だね」。

 「そうこたえたあの人が世界中でいちばん好きだったの」とエドガーに話すエルゼリ。

 向かい合うでもなく、現実を見ろと笑われるでもなく、たとえ見間違いでも空想でも、自分が見た世界を一緒に見てくれたと「感じた」、それだけで「世界中でいちばん好き」になってしまうのだ。エルゼリのような、あるいは、あかりのような人間は。

 「自分だけの世界」の終わりは、「はるかな国の花や小鳥」においても突然にやってくる。ハロルド・リーの事故死。それを知らされたエルゼリは「さっきまでこの世界 わたしのものだったのに」と絶望し、「ねむってしまおう すぐに」と自殺を図る。察したエドガーに発見され、かねてからエルゼリに求婚していた町医者、ヒルス先生の処置をうけて一命を取り留める。

 エドガーはヒルス先生に告げる。「あの人が目覚めたらお城の話をしてごらん。目覚めて人間にもどったらね。あの人にはあなたが必要だよ、今こそ」そしてエドガーはエルゼリの住む街を出る決心をする。

 そしてエルゼリのその後が語られ、この短篇は終わりを迎える。

「その人は それから3年の後 病気でなくなったと聞きます お城のことをきいた医師に ほほえむだけで なにも言わなかったと それからは合唱団の指揮もやめ だまって花を見 ものを思う毎日だったと あの人は人間にはなりえなかったのでした たぶん 生まれながらの妖精だったのです

 わたしが住むのはバラの庭 くちずさむのは愛の歌 日々思うのはやさしいひと

あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」

 ハロルド・リーがいなくなったことで、エルゼリのベクトルは行く先をなくしてしまう。「わたしのものだった」世界は自分とは遠いものになってしまい、自分の存在意義すら見失ってしまう。

 『推し、燃ゆ』においても、推しの炎上によって自分の存在意義が危うくなっている。「自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている」というあかりの行為はもはや自傷に近い。私の知り合ったリストカッターは、リストカットをする理由について3人が3人ともあかりと同じこと、つまり「自分自身を浄化するような気がする」と言っていた。自傷行為が自分自身を「浄化する」と言い切ってしまっていたならもう「あっち側に行っちゃった人」というか、カルト宗教めいているが、ご丁寧に「ような気がする」に傍点が付いているあたり決して自分を客観的に見られていないわけではない。バイト先に向かう支度をするとき「髪をきつくしばると両目尻がつり上がって心なしか顔が明るくなる」等とあることからもそれは明らかで、だからこそつらいのだ。

 エルゼリのハロルド・リーに対するベクトル、あかりの推しに対するベクトル、どちらも「確かにその先に対象がいる」と思えたからこそ保っていられたものだった。そしてベクトルこそが自分の存在意義であり、「推す」という感情であった。

 「自分だけの世界」を共有したと感じることのできたハロルド・リーがいなくなった後のエルゼリを、エドガーは「人間にもどったら」「今こそ」「あなた(=ヒルス先生=現実)が必要」と評する。妖精から人間に、はるかな国から現実に、戻る手助けをヒルス先生がしてくれると考え、ヒルス先生にエルゼリを託す。

 だが街を出るエドガーは涙する。それまでもエドガーはエルゼリに、みんな現実に直面して、悩んだり憎んだり悲しんだりしている、あなたは夢を見ている、目を覚ましたら? と諭していたのだから、現実を見るようになればめでたしめでたし、のはずなのに。人間の現実世界を生きられないバンパネラエドガーは、心のどこかでエルゼリがずっと「はるかな国の妖精」でいてくれることを願っていたのだろう。

 『推し、燃ゆ』ではもっと直接的に、家族(≒最も利害関係の生じる人間)から「あかりはずるい」「ずっと養っているわけにいかない」と言われる。みんなそうしているのだから一人だけ現実に生きないなんて許せないと。だがあかりは働くわけでもなく、相変わらず推しを推す生活を続ける。

 その生活を壊したのも他ならぬ推しである。「おれなんか」という、推しにとっては自己ではあるがあかりにとっては「命にかかわる」「背骨」への卑下。洗濯物という現実生活の象徴と、推しとが繋がってしまったこと。「推しは人になった」=現実生活をうまく生きられなかったあかりの唯一のよりどころであった推しさえも、現実世界の人になってしまった。そのことが家族の小言よりもバイトをクビになったことよりも、何よりもあかりを打ちのめす。ハロルド・リーの死にはなくてあかりの推しの引退にはあったものは、「はるかな国」への裏切りである。

 出会いからしてピーター・パンという、大人になれない、なりたくない役柄だった(この設定はちょっと出来すぎというか、露骨な感じもしなくはない)推しが、大人の現実を生きますと宣言したことは、あかりが推しと作ってきた世界への裏切りだ。

 「ポーの一族」シリーズには近年続編も出ているが、「はるかな国の花や小鳥」が描かれたのは1975年。「だまって花を見、ものを思う毎日」とはどんな生活か想像することすら難しい、より世知辛くなった2020年代の社会では、現実世界に適合しろとの圧力はさらに強く、はるかな国はさらに小さく遠く、妖精はさらに生きづらくなっている。

 あかりは最後「お骨をひろうみたいに丁寧に」自分が投げた綿棒を拾う。おにぎりには黴を生やすし、どんぶりには汁が入ったままで、生きるに必要な食べるという行為はないがしろにしているのがわかるのに、綿棒だけは丁寧に拾う。「あたし自身の骨を自分でひろうことはできない」その代替(これも少し露骨さを感じるが)としての、骨のように軽い綿棒を拾う行為。裏を返せば「拾えるものなら自分で自分の骨を拾いたい」つまり「自分で自分の始末をつけたい」ということではないか。人生をあくまで自分の中だけで完結させたいという、確固たる意志のようなものをこの場面からは感じる。

 数年前、たまたま立てつづけに「現実世界にうまく適合できない自分」を描いた現代小説を読んだのだが、どれも「他人より繊細な私を社会がよってたかっていじめるの~(泣)」というような被害者意識に溢れたものだったので(私のチョイスが悪かったのだろうが)辟易し、しばらく古典に逃げていた。

 だが『推し、燃ゆ』にはそういった被害者意識は薄いように思う。あかりが感じる「生きることの重さ」を、他の人は感じない。それはあかりが悪いわけでも社会が悪者なわけでもない。ただ感じるか感じないかで、そこに優劣や善悪はない。推しについてのSNSへのコメントをどれ一つとして否定していないことからもそのことを感じる。

 現実社会への適応能力、という点では数年前に読んだ小説の登場人物より『推し、燃ゆ』のあかりの方がはるかに低い。偏差値70の集団に50の自分が適応できない、というものではなく、70だろうが50だろうが20だろうが背が届けばできるはずの、例えばバスを降りるという行為、生きていく上でできないなんてある? と思われる行為すらできないというレベルだ。このあたりの「できなさ」の描写は、同様の経験をしたことがあれば特に、痛みを伴うほどにリアルだ。

 ただ、「あかり=作者」ではない、とははっきりと言える。現実に適応できない人間を、現実に適応した形で表現、提示できているのだから。「推しネイティブ」でありながらネイティブでもノンネイティブでも興味をひかれる文章を冒頭にもってきた聡さはここでも発揮され、「あかりは私だ」と考える人にも、「そういう人もいるのか」と衝撃を受ける人にも受け入れられる描写をなっていると思う。

 あかりは好きであることの形、現実への適応能力を含めた「多様性」を知っていて、そこに比較の物差しを持ち込まない。そういう聡さが、この小説を自己憐憫や単なる生きづらさの告白ではない、確固としたものにしていると思う。