少読乱読日記

小説や漫画のことなど。

『メタモルフォーゼの縁側』では何がメタモルフォーゼ(変化、変身)したのか

 DMMの電子書籍70%オフキャンペーンよありがとう。おかげでずっと迷っていた『メタモルフォーゼの縁側』(鶴谷香央理)を全巻買えました。

 

(以下ネタバレ有り)

 

 夫を亡くし、今は書道教室を営みながら一人暮らしを続ける老婦人・市野井雪は、久々に入った書店でふと1冊のBLコミックスをそれと知らずに手に取る。アルバイト書店員の女子高生・佐山うららもそのBLコミックのファンで、それをきっかけに二人は交流するようになる。年の差58歳の「趣味友」が織りなす日常の物語。それが『メタモルフォーゼの縁側』の概要と言えば概要である。

 

 ほんとうに、すがすがしいくらいの「日常」だ。書道教室には雪に片思いしているとおぼしき老紳士がいたり、結婚して外国で暮らす雪の娘が同居を勧めてきたり、うららはうららで幼なじみの紡とその彼女との微妙な関係に巻き込まれたり、離婚して母子家庭になっている(らしい)うららの家に母の友人が酔っ払って転がり込んできたり学歴至上主義に近い父と面会したり、父の厳命で予備校に通うもサボって雪の家で漫画を書いたり、即売会で憧れの漫画家とすれ違ったり……ストーリーを急展開させそうな要素は周りにいくらでも転がっているのに、決してそちらには行かず「日常」を保っている。しかも保たせようと努力していたり、面倒ごとを避けようと無理していたりするわけではない。

 「王道」ならば、雪は老紳士に言い寄られて悩み、異国で娘夫婦と暮らすことに迷うだろう。うららは幼なじみの紡を巡る三角関係となり、母の友人に傷つけられるか惹かれるかし、父に反発し、憧れの漫画家とも再会し、大学なんか行かずに漫画家になると宣言するなど、怒濤の展開が起きるだろう。ある意味、そうした展開になることを読者が期待し、その期待を裏切り続けていくのがこの漫画なのだ。

 考えてみると、「泣ける○○」が特集され泣ける話が量産されたり、「本当にあった怖い話」が人気を博していたりしようとも、それら「泣ける話」「怖い話」の「中の人」になりたいとは思わない。あくまで読者、視聴者の立場でそれらの話を消費し、あー悲しかった、泣けた、怖かった、でひとときの「非日常感」を楽しむだけだ。

 「王道」の漫画にもその「非日常感」が期待される。ハラハラドキドキしたいから漫画を読む。でもそのハラハラドキドキが自分自身の日常で起こることは望まない。読者や視聴者とはわがままな存在だ。

 『メタモルフォーゼの縁側』で唯一の「非日常感」といえば、「75歳と女子高生とがBLを通して友情を育むこと」だ。それで十分。年齢で規定されることが溢れる現実の中で、「好きなものに年齢は関係ない」というメッセージだけが「非日常」として燦然と輝く。それでよくない?

 漫画の登場人物に悲しい思いや怖い思いをさせてそれを消費するなんてこと、しなくてもよくない? しなくたって漫画の中の時も流れていくんだし。

 実際、時が流れれば変わっていくのだ。雪は娘のところに「長めの旅行」に行くし、うららはちゃんと第一志望の大学に合格するし、紡はすれ違っていた彼女がいよいよ留学に旅立つ日、うららに触発されて見送りに行ったようだし(そのあたりを描いていないのもまたうららから見た日常だからか)、なんだかんだで、ドラマチックでなくとも、何かしら少しずつでも変わっていくのだ。それが日常の力だ。

 雪のいない家で縁側に座ったうららは「舟の舳先みたいだな」と感じる。縁側という日常の権化みたいな場所を、突き進む舟の舳先にたとえるうららは「日常の力」を知っている。

 ドラマチックな展開、翻弄される登場人物、それらを消費する読者の日常は変わりばえしない、何のパワーもないつまらないもの――そういう思い込みからの「メタモルフォーゼ」をこの漫画は示してくれた。

百年文庫52『婚』で学ぶ、結婚にまつわる滑稽さ

ポプラ社の百年文庫シリーズは、時々ぽっと読むのに最適だ。何せ短篇3篇、行間も広く字も文庫より大きく老眼にやさしい。ただひとつ、全部まとめて買うわけではないので100巻あるうちのどれを買ったか忘れて、たまに同じ巻を買ってしまうことだけが難点だ。それを避けるためにチェック表を作っているのだが、買ってもそこにつけるのを忘れてしまったりするのでこれは完全に自分側の問題。

 

『婚』は結婚にまつわる3篇が収録されている。
久米正雄「求婚者の話」は、いわゆる直情型、即断即決の青年が一目惚れした女性を追いかけあとをつけてそのまま彼女の父親に結婚の直談判をしに行く話。さてどうなるか……では終わらない、意外な結末に何とも分類不能な笑いが漏れる。
ジョイス「下宿屋」は、下宿屋の娘と関係した男が娘の母親に追い詰められる話。母親のたくましさと、娘や男の焦燥との描かれ方の対比が面白い。
ラードナー「アリバイ・アイク」は、失敗しようが成功しようが言い訳ばかりのプロ野球選手アイクに恋人ができ、プレーも絶好調で幸せいっぱいの話……とはいかず、同僚に詮索されいつもの言い訳癖が出て破局の危機に。アイクは彼女と結婚できるのか!? という、ユーモアに溢れた話。アイクの言い訳を律義に全部読んでいるとイライラすること間違いなし。

 

男女が運命に翻弄されすれ違うが最終的にゴールインでめでたしめでたし、というドラマのような話はここにはない。
その代わり、その渦中にいるときは見えない滑稽さがある。なぜあのときはあんなに周りが見えなかったのか、なぜあんなに大胆な行動ができたのか、なぜあんなに恐れていたのか、なぜあんなことを言ったのか……。何十年も経って思い返せば赤面必至の、熱量の大きい滑稽さが「結婚」の周辺にはある。
これだから人間は面白い。

『るん(笑)』の「語体」と執拗さ

 『るん(笑)』をやっと読み終えた。読みにくかったというわけではなく、諸々の雑事と先に読まなければいけない本が重なっていたせい。

(以下ネタバレあり)

 作者・酉島伝法さんのものを読むのはこれで二度目。一度目は『2010年代SF傑作選2』に収録された「環刑錮」で、主人公は人間ではあるが刑罰によって異形になっている。今回の『るん(笑)』は帯コピーに「奇才・酉島伝法がはじめて人間を主人公にした作品集!」とあったが、「環刑錮」も人間ではあるので正確に言えば「はじめて普通の人間を主人公にした」ではないだろうか。

 普通の人間、普通の家族が出てきて、普通の日常を送っている3編の連作――かに見える。だが明らかに「おかしい」のである。

 冒頭の「三十八度通り」で38度の熱の続く土屋は、たまらず薬を飲むと「免疫力の……立場」「気持ち、なぜ考えてあげない」と妻の真弓になじられる。思考盗聴を防ぐウィッグやら、脳波を調整する心理チューナーやら、龍の鱗で浄化した閼伽水(アクア)やら、万能健康食品とおぼしきミカエルやらが当然のように存在する。スピリチュアリズムが日常生活の至る所に根を下ろしていて、そのあたりの描写の執拗さには「よくもここまで考えが及ぶよなあ」と感嘆させられる。

 科学が徹底的に否定された世界では、目に見えるものだけに根源を求めようとするのだろうか。病気や病院は病垂を除かれて丙気、丙院と言われる。癌は「蟠り」(わだかまり)と言い換えられ、蟠りは「虫が番うと書く」という理由で「るん(笑)」とさらに言い換えられる。しかし末期の蟠りに冒された美奈子を主人公にした「千羽びらき」では、忌み嫌われているはずの病垂がそこかしこにあらわれ、読み進めるごとに増えるようにさえ思える。「隙癇」(すきま)「瘋」(かぜ)「疲膚」(ひふ)といった具合に。目に見えるものだけを除いても、癌細胞は増殖しつづけているんだよ、とでも言うかのように。

 こういう文体、いやもう少し細かい「語体」とでもいうのか、を造り出すのは本当に難しいが、作者の造語力の高さが遺憾なく発揮されているように思う。

 だが決して現実と乖離しているわけではなく、美奈子の孫の真を主人公にした「猫の舌と宇宙耳」では、真は汚れた便器を素手で綺麗に「させていただく」と述べる。素手でのトイレ掃除は学校や企業で「感謝の心を示す」などの理由をつけて、現在進行形で美談として語られている実話である。もちろん、科学が(まだ)力を持っている現実では「不衛生だ」と反発する意見が大多数なのだが。


 「千羽びらき」は、美奈子の葬儀で夫が読むつもりであろう挨拶文の下書きを、美奈子自身が清書しようとするところで終わる。病人の美奈子自身に負担をかける「千羽びらき」をさせておきながら、コバエがわくのは生ゴミが溜まっているからだということにも気づかない美奈子の夫。

 現実で、これに似た話をふたつ聞いたことがある。

 ひとつ。友人の義母が癌になり、義母にさんざん苦労をかけた義父が「青汁で癌が消える」と聞いて入院中の義母に手作りの青汁を届ける。だが葉なら何でもいいと思っているのか、ネギの青い部分やらニラやら入れるので臭くて飲めたものではない。それでもせっかく作ってくれたんだからと義母は飲む。義父の機嫌を損ねないように。
 もうひとつ。母親が病気になった中年男性が、「ありがとうと毎日百回唱えれば病気は治る」と聞き、毎日唱えるが、一時退院した母に自分のワイシャツのアイロンをかけさせる。

 ちなみに、どちらも病人は治ることなくこの世を去っている。

 これだけでも、『るん(笑)』の世界が決して荒唐無稽な、極端な話ではなく、すぐ隣にある身近なもの、決して無関係と笑い飛ばせないものだとわかるだろう。

 

 

 

『大奥』の完結に思う「性から愛へ」

 『大奥』が単行本第19巻をもって完結した。やはり「if」ものの金字塔として残されるべき、堂々たる最後だった。

(以下ネタバレあり)

 春日局の支配のストレス発散にと、行きずりの女を手込めにした第三代将軍家光(男)、そしてそれによって生まれた娘は母を殺され、赤面疱瘡で死んだ父の身代わりをさせられ、自身もまたレイプに遭い死産する。正直、かなり陰惨な”男女逆転”大奥の発端である。

 その後も奔放な性生活を側用人柳沢吉保に嫉妬され、心に秘めてきた思いを打ち明けられつつ窒息死させられる五代将軍綱吉、集団レイプにより梅毒に感染した平賀源内、母から子孫を残すことを強要され次々と女性をあてがわれたが一方で子は母の退屈しのぎのために殺された十一代将軍家斉、父から性的虐待を受け続けた十三代将軍家定など、性における地獄の見本市といった様相を呈す。

 そんな中、十四代将軍家茂と和宮(彼女もまた母に溺愛された弟の身代わりとなって家茂に輿入れした)は、女性同士ということもあって「性」を離れた関係を育む。弟と異なり愛されない子という傷を抱え屈折していた和宮は家茂の素直さ、聡明さによって心を開き、自分より家茂を優先に考えるようになる。それは確かに「愛」である。

 二十歳の若さで家茂が死去した後、和宮は養子を慈しみ、家茂が愛した江戸の町を守るために才覚を発揮し、江戸城無血開城に及ぶ。

 平賀源内も性病により非業の死を遂げはしたが、赤面疱瘡撲滅のための種痘への執念から、その死に際は明るかった。描かれている源内の性格が豪放磊落だということもあるだろうが、「性によって痛めつけられようとも屈しない」というメッセージもあるのではないだろうか。

 源内を不屈の人にさせた種痘への執念は、そのまま人々を救いたいという人類愛につながる。

 愛する人亡き後もその人の愛したものを守りたい、という和宮の家茂への思いが、江戸の町を救う。「女に作られた恥ずべき歴史」と切り捨てる西郷隆盛に激昂し啖呵を切る和宮は実に「男らしい」(もちろん皮肉)。女将軍達が築き上げ守ってきた江戸の繁栄の歴史をたとえ男の手柄と歪められても、この繁栄を守り江戸を火の海にさせないことが和宮の「愛」である。

 「性」ではじまった大奥の歴史が「愛」で終わる。

 『大奥』という漫画が全体を通して「将軍が女性であったとて何ら不思議はない」と思わせてくれたこともあわせて、この壮大な物語は「性によって受けた傷が、愛によって救われる」話だったのではないだろうか。


 政治は男性でなければ、支えるのは女性でなければ、などという性別役割分業論も含め、「性」にとらわれたところから脱却し、そろそろ「愛」へと進化しませんか―― そういうメッセージであると、政治におけるジェンダーギャップ指数153カ国中125位の国に住む私は思うのである。

 

 

推しと『推し、燃ゆ』

※この文章自体は昨年書いたものです


 『推し、燃ゆ』の載っている「文藝」秋号を買ったのは、ちょうど「推しとは何ぞや」と思っていて、タイミング良く発売されたからに他ならない。

 1971年生まれの私が小学校高学年~中学ぐらいの時には、「たのきんトリオ」や「チェッカーズ」が全盛期で、「トシちゃん派なのマッチ派なの!?」と詰め寄られたり、「マッチと結婚したい……」と語られたりしていた。チェッカーズのコンサートに行った子が「フミヤがこっちを見た」と思い出しては涙するのを見たりもした。あの頃の子たちと、今の「推しを推す」子たちがどう違うのか、という単純な興味だった。

 あの頃の「好き」はすべて「異性間の恋愛」につながるものとみなされていたように思う。「ファン」や「追っかけ」は「疑似恋愛」であり、必ず異性に対して発動し、「本物」の恋愛を体験するとともに消えていくものであると。「異性間の恋愛」は必ず相手からのレスポンスを望むものであり、行き着く先は「結婚」あるいは少なくとも「結婚への願望」につながるはずであると。

 それが王道であり、それ以外は異端だった。広くてまっすぐな「異性との恋愛→結婚」という高速道路があり、「異性との婚外恋愛」いわゆる「不倫」の獣道が脇をくねる、それが「好き」の道だった。「ファン」や「追っかけ」はその高速道路に入る前の合流道路にすぎないと思われていた。その傾向はつい10年ほど前まで続いていたように思う。

 2009年、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)に主婦からのある相談が載った。その相談とは「アニメのキャラに本気で恋をしたので、夫と離婚したい」というものだった。スレッドが進むにつれ、その相手キャラが「北斗の拳」のラオウであると明かされ皆ずっこける流れになっていたので、ひょっとしたら「釣り」であったかもしれないが、ともあれその相談はネット上で話題になった。

 少なくともその頃は「(アニメキャラのような)手の届かない存在を好きになること」と「(実在し手に届く人間との)結婚生活」とは両立しないものととらえられていた、ということだ。つまり「手の届かない存在への『好き』という感情」は「恋愛」であり「恋愛」は「結婚」につながるものだから両立、併存はできないということだ。

 だがその頃、もう一つの流れが加わる。2009年には、それまで秋葉原系オタク限定アイドルとみなされていたAKB48オリコンチャート1位を取り、「一推しのメンバー」を意味するアイドルオタク用語であった「推しメン」が2011年にはユーキャン新語・流行語大賞候補になるほど人口に膾炙し、「推し」がオタク限定ではなく一般的な概念になった。

 さらに数年経つと、性的マイノリティへの認識の深化が始まった。LGBTQという言葉が一般的になり、BLや百合の物語が書店で一角を占めるまでになっている今では、「好き」が異性間に限らないことも、ましてや結婚に直結するものではないことも、大多数がわかっている。「好き」が多様化したのである。

 読後に調べたところ、『推し、燃ゆ』の作者である宇佐見りんさんは1999年生まれ。「推しメン」が新語・流行語大賞候補になったときは12歳だから、ぎりぎり「推し」という語が生まれながらにしてそこにあったかどうか、という世代であり、「推し」という言葉を違和感なく使うことができる世代であろう。「推しネイティブ」といってもいい。

 また、急速に性的マイノリティへの理解が広まるころに、思春期を過ごした世代でもある。「『好き』の多様化第一世代」とでもいうか。

 そう考えると『推し、燃ゆ』の冒頭の一文「推しが燃えた。」は絶妙だ。「燃えた」を「炎上した=言動や行為に対して、インターネット上で批判が殺到した」という意味だと捉えることができるか、も含めてこの一文で「『推し』って(実感として)わかる? わからない?」を突きつけられているように思う。実感として理解できる「推しネイティブ」ならば「それはショックだよね」と同情し「何をやらかしたの?」と興味をひかれ、推しの概念がわからないノンネイティブならば「?」が頭の中に飛び交うだろう。おそらく作者自身が「推しネイティブ」であることを自覚した上で、推しネイティブもノンネイティブも興味をもつであろう表現として「推しが燃えた。」という一文を冒頭にもってきた、という策略なのではないか。

 

 『ポーの一族』という萩尾望都作の漫画がある。バンパネラ(吸血鬼)となり永遠に生きる少年エドガーを主人公に短篇の連作形式で描かれたもので、「はるかな国の花や小鳥」もその短篇のひとつである。

 バラ(血とともにバンパネラの食物)が咲き誇る庭の女主人、いつも幸せそうに笑っているエルゼリと親しくなったエドガーは、エルゼリの指揮する合唱隊にしばし通うことにする。エルゼリは、10年前の夏に出会った恋の相手、婚約を破棄して戻ってくると約束したハロルド・リーを思い続けており、ハロルドが前からの婚約者と結婚したと聞いても「わたしは幸せ」と言う。

 「憎しみも悲しみも それらの感情は行き場がない わたし弱虫 そんな感情には耐えられない だからあの人を愛していたいの それだけで幸せでいられる」と。

 この一方向性、レスポンスを求めない自分の側からだけのベクトルは「推し」への感情と同じではないか。

 「わたし弱虫 現実世界には耐えられない だから推しを推していたいの それだけで幸せでいられる」と言い換えればそのまま『推し、燃ゆ』の世界ではないか。そこは「ハロルド・リーがわたしを選んだ」あるいは「フミヤがこっちを見た」というような現実のレスポンスは不要で、ただ「自分の思い」さえあればいい世界だ。

 エドガーはハロルド・リーを訪ね「エルゼリを知ってる?」と唐突に質問するも、ハロルド・リーは「だれのことだね?」と覚えていない様子を示す。エドガーはエルゼリにその事実を告げようとするが、出てきたのは「あの人あなたのこと……覚えてたよ」という嘘の言葉だった。

 エルゼリはエドガーに「(ハロルド・リーは)口ひげを生やしたって聞いたわ。似合ってた?」など、覚えていたかどうかさえどうでもいいような質問をする。これも「レスポンスはどうでもいい、ただ相手を知りたいという思い、自分の思いさえあればいい」ということではないか。

 また、エルゼリはエドガーに、ハロルド・リーとの10年前の想い出を話す。彼が婚約者のいる街に戻らなければいけない日の前夜、二人で出かけると、お城が見えた。「お城が見えるわ」そう言ってからすぐに、それが月明かりに照らされた木立だと気づいた。だが、ハロルドは答えた。「ああ ほんとうだ お城だね」。

 「そうこたえたあの人が世界中でいちばん好きだったの」とエドガーに話すエルゼリ。

 向かい合うでもなく、現実を見ろと笑われるでもなく、たとえ見間違いでも空想でも、自分が見た世界を一緒に見てくれたと「感じた」、それだけで「世界中でいちばん好き」になってしまうのだ。エルゼリのような、あるいは、あかりのような人間は。

 「自分だけの世界」の終わりは、「はるかな国の花や小鳥」においても突然にやってくる。ハロルド・リーの事故死。それを知らされたエルゼリは「さっきまでこの世界 わたしのものだったのに」と絶望し、「ねむってしまおう すぐに」と自殺を図る。察したエドガーに発見され、かねてからエルゼリに求婚していた町医者、ヒルス先生の処置をうけて一命を取り留める。

 エドガーはヒルス先生に告げる。「あの人が目覚めたらお城の話をしてごらん。目覚めて人間にもどったらね。あの人にはあなたが必要だよ、今こそ」そしてエドガーはエルゼリの住む街を出る決心をする。

 そしてエルゼリのその後が語られ、この短篇は終わりを迎える。

「その人は それから3年の後 病気でなくなったと聞きます お城のことをきいた医師に ほほえむだけで なにも言わなかったと それからは合唱団の指揮もやめ だまって花を見 ものを思う毎日だったと あの人は人間にはなりえなかったのでした たぶん 生まれながらの妖精だったのです

 わたしが住むのはバラの庭 くちずさむのは愛の歌 日々思うのはやさしいひと

あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」

 ハロルド・リーがいなくなったことで、エルゼリのベクトルは行く先をなくしてしまう。「わたしのものだった」世界は自分とは遠いものになってしまい、自分の存在意義すら見失ってしまう。

 『推し、燃ゆ』においても、推しの炎上によって自分の存在意義が危うくなっている。「自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている」というあかりの行為はもはや自傷に近い。私の知り合ったリストカッターは、リストカットをする理由について3人が3人ともあかりと同じこと、つまり「自分自身を浄化するような気がする」と言っていた。自傷行為が自分自身を「浄化する」と言い切ってしまっていたならもう「あっち側に行っちゃった人」というか、カルト宗教めいているが、ご丁寧に「ような気がする」に傍点が付いているあたり決して自分を客観的に見られていないわけではない。バイト先に向かう支度をするとき「髪をきつくしばると両目尻がつり上がって心なしか顔が明るくなる」等とあることからもそれは明らかで、だからこそつらいのだ。

 エルゼリのハロルド・リーに対するベクトル、あかりの推しに対するベクトル、どちらも「確かにその先に対象がいる」と思えたからこそ保っていられたものだった。そしてベクトルこそが自分の存在意義であり、「推す」という感情であった。

 「自分だけの世界」を共有したと感じることのできたハロルド・リーがいなくなった後のエルゼリを、エドガーは「人間にもどったら」「今こそ」「あなた(=ヒルス先生=現実)が必要」と評する。妖精から人間に、はるかな国から現実に、戻る手助けをヒルス先生がしてくれると考え、ヒルス先生にエルゼリを託す。

 だが街を出るエドガーは涙する。それまでもエドガーはエルゼリに、みんな現実に直面して、悩んだり憎んだり悲しんだりしている、あなたは夢を見ている、目を覚ましたら? と諭していたのだから、現実を見るようになればめでたしめでたし、のはずなのに。人間の現実世界を生きられないバンパネラエドガーは、心のどこかでエルゼリがずっと「はるかな国の妖精」でいてくれることを願っていたのだろう。

 『推し、燃ゆ』ではもっと直接的に、家族(≒最も利害関係の生じる人間)から「あかりはずるい」「ずっと養っているわけにいかない」と言われる。みんなそうしているのだから一人だけ現実に生きないなんて許せないと。だがあかりは働くわけでもなく、相変わらず推しを推す生活を続ける。

 その生活を壊したのも他ならぬ推しである。「おれなんか」という、推しにとっては自己ではあるがあかりにとっては「命にかかわる」「背骨」への卑下。洗濯物という現実生活の象徴と、推しとが繋がってしまったこと。「推しは人になった」=現実生活をうまく生きられなかったあかりの唯一のよりどころであった推しさえも、現実世界の人になってしまった。そのことが家族の小言よりもバイトをクビになったことよりも、何よりもあかりを打ちのめす。ハロルド・リーの死にはなくてあかりの推しの引退にはあったものは、「はるかな国」への裏切りである。

 出会いからしてピーター・パンという、大人になれない、なりたくない役柄だった(この設定はちょっと出来すぎというか、露骨な感じもしなくはない)推しが、大人の現実を生きますと宣言したことは、あかりが推しと作ってきた世界への裏切りだ。

 「ポーの一族」シリーズには近年続編も出ているが、「はるかな国の花や小鳥」が描かれたのは1975年。「だまって花を見、ものを思う毎日」とはどんな生活か想像することすら難しい、より世知辛くなった2020年代の社会では、現実世界に適合しろとの圧力はさらに強く、はるかな国はさらに小さく遠く、妖精はさらに生きづらくなっている。

 あかりは最後「お骨をひろうみたいに丁寧に」自分が投げた綿棒を拾う。おにぎりには黴を生やすし、どんぶりには汁が入ったままで、生きるに必要な食べるという行為はないがしろにしているのがわかるのに、綿棒だけは丁寧に拾う。「あたし自身の骨を自分でひろうことはできない」その代替(これも少し露骨さを感じるが)としての、骨のように軽い綿棒を拾う行為。裏を返せば「拾えるものなら自分で自分の骨を拾いたい」つまり「自分で自分の始末をつけたい」ということではないか。人生をあくまで自分の中だけで完結させたいという、確固たる意志のようなものをこの場面からは感じる。

 数年前、たまたま立てつづけに「現実世界にうまく適合できない自分」を描いた現代小説を読んだのだが、どれも「他人より繊細な私を社会がよってたかっていじめるの~(泣)」というような被害者意識に溢れたものだったので(私のチョイスが悪かったのだろうが)辟易し、しばらく古典に逃げていた。

 だが『推し、燃ゆ』にはそういった被害者意識は薄いように思う。あかりが感じる「生きることの重さ」を、他の人は感じない。それはあかりが悪いわけでも社会が悪者なわけでもない。ただ感じるか感じないかで、そこに優劣や善悪はない。推しについてのSNSへのコメントをどれ一つとして否定していないことからもそのことを感じる。

 現実社会への適応能力、という点では数年前に読んだ小説の登場人物より『推し、燃ゆ』のあかりの方がはるかに低い。偏差値70の集団に50の自分が適応できない、というものではなく、70だろうが50だろうが20だろうが背が届けばできるはずの、例えばバスを降りるという行為、生きていく上でできないなんてある? と思われる行為すらできないというレベルだ。このあたりの「できなさ」の描写は、同様の経験をしたことがあれば特に、痛みを伴うほどにリアルだ。

 ただ、「あかり=作者」ではない、とははっきりと言える。現実に適応できない人間を、現実に適応した形で表現、提示できているのだから。「推しネイティブ」でありながらネイティブでもノンネイティブでも興味をひかれる文章を冒頭にもってきた聡さはここでも発揮され、「あかりは私だ」と考える人にも、「そういう人もいるのか」と衝撃を受ける人にも受け入れられる描写をなっていると思う。

 あかりは好きであることの形、現実への適応能力を含めた「多様性」を知っていて、そこに比較の物差しを持ち込まない。そういう聡さが、この小説を自己憐憫や単なる生きづらさの告白ではない、確固としたものにしていると思う。